ピュリファイトされたサウナ体験

石黒: 早速ですが2回ドシーに来てみて何か変化はありましたか?

中村:全然違う空間・体験だった。というのも、1回目は銭湯に併設されているような普通のサウナを想像してたんだよね。だからはじめに入った時、自分が想像しているサウナと違うことが意識の真ん中にあった。まず、ロッカーが木で奥行きもあまり無い。なんでこうなっているの?鞄入らないじゃないってまず思うわけですよ。

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次に、着替えて入ったらすぐシャワーで、浴槽もない。何を要求されているかと思うと、サウナのお作法が書かれている。「これにのっとれ」といわんばかりに。そして、サウナで汗を流した後外にでると水に打たれなきゃならない。

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若菜:まさに打ち水だったよね。

中村:普通はそっと入るっていう行為じゃない。水風呂って。でも打ち水で。その打ち水も温度が選択できて、常温が1番冷たいのとか凄い騙された感じがあったよね。ここのルールに従わなくてはいけないことが多くて、1回目は「うーん、なんか期待とは違ったな」というのが正直な感想。 けど、2回目来たら知っているんだよね、お作法をさ。

若菜:それって「道」が分かっているんだよね。

中村:そうなんだよ。それに従って体験すると気持ち良かった。若菜さんはどう?

若菜:設計した、スキーマ建築計画が考えるミニマムな空間の中にピュリファイトされたサウナ体験がパッケージされていることが凄い新鮮だった。あそこサウナのために存在していたよね。マッサージチェアとか無いじゃない。そういうことじゃないんだよってことを教わった。身を清める神道イズム的な。

多くが混在するミニマルな空間

中村:面白いのは、隠すことによって構成されている空間のところ。見せないことでミニマムな空間を演出している。ミニマムを作ったのではく、ミニマムに寄せていっている。

若菜:コスト計算上、ラーチ材※1で今回は揃えて調整しようのようなことはあっただろうね。 (※1:マツ科の落葉針葉樹。強度、腐朽に対する耐久性に優れて建築材料としてもよく使われる)

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中村:サウナのフロアの天井とラウンジの天井は素材が同じだけど、防水素材をラウンジには使う必要はないよね。

松山:必要はないけど、デザインを統一するという点では必要な行為という判断だと思う。そういえば、シャワーのところ入るといきなりポーンと投げ出された感があった。

若菜:そうなんだよ。何かが足りない気がする。

中村:空間的にエレベーターを降りて、ドア開けたらすぐに裸が飛び出して来ると普通は思わないからね。

松山:本来は、すぐ脱衣所ではないので設計の意図としては裸の人がドア開けたら出てくるとは想定していませんから。ただ、脱衣スペースと洗面台は普通繋がっているからそういう意味で見ればおかしくはないかも。

若菜:動線もミニマルだよね。

中村:お風呂屋さんだと、所作として暖簾をくぐるっていう行為があるじゃないですか。入った後に磨りガラスがあるから風呂場が透けて見えて、透けているから風呂場に裸の人がいるという心構えができる。一方、ドシーだと入った瞬間にどこに風呂場があるか分からない中で裸の人がいるからビックりしちゃうのかもしれないね。

松山:確かに。もうひとつあるのは、靴を脱がないからなのかも。裸の人が混在している空間って、靴脱いで1段上がってという行為が普通ある。だから変な感じがして、土足の人と裸の人っていう相容れない状況が生まれる可能性があるからなのかも。

中村:それも2回目だと分かっているから構えていられる。だから全然ビックリしなかった。

石黒:色の違いもありましたね。通常男だと藍色、女性だと赤色等っていう違いがなくて、男性のM、女性のWでしか空間への入り口の違いがない。

全ては鴨長明に通ずる?

若菜:カプセルホテルは大阪が発祥なのかな?

中村:そうみたいだね。黒川紀章が設計したカプセル・イン大阪(カプセルホテル)が発祥。大阪万博で黒川紀章が提唱したカプセル住宅を気にいった大阪の商人が急激な人口増加を解決する方法として、黒川紀章にカプセルホテルを相談したのが始まりらしいよ。二階に登る梯子は寝台列車を参考にしているんだって。

若菜:西成の街の構成やそこに展開されている空間※2って、カプセルホテルの原型なのかもしれない。そこらへんの話ってプレハブとかとも絡む話だよね。

(※2 大阪市西成区にある、あいりん地区をさす。コンパクトな街に最小単位の要素が多く散りばめられている。モノが多くの日雇い労働者がこの地区に滞在しており、狭小なホテルが破格の値段で提供されている。)

石黒:部品化されて、効率化され、工場のラインが整い始めたのも絡んでくる話だと思います。カプセルホテルが出始めた時代背景を考えてもメタボリズムが提唱されたり、産業と工業が密接になっている時代ですから。

その頃って、狭いところで何とか生きていく手段としてカプセルホテルだったんだと思うんです。なので現代とは存在する理由が少し異なっていて、カプセルホテル自体がアップデートされていっているような気がしますね。

若菜:日本もかつては貧しかったので工業化の波が来て変わったということだよね。

石黒:土地の値段もどんどん上がっていったので、都市で住まう為にはコンパクトに効率するしかなかった。こと業者は高額で少ない土地でどのようにしてい収益を上げていくという発想になったはずです。

中村:子供の頃ってサウナに憧れあった。大人になったらあーいう所泊まるのかなとか思っていたよ。

若菜:手の届く所に何でもあるっていうのがやっぱり、コックピット感がでて楽しいのかな。

中村:四畳半感とかね。

若菜:そうか、やっぱり鴨長明※3なのか。ということは方丈記に繋がるんだね。

(※3 鴨長明は持ち物や住居空間を最小限まで小さくし生活していくミニマリストとしても有名で、若菜はcowcamoのアプリ内にて、上記の様なコンパクトではあるが最低限整った住居をキュレーションしユーザーが直感的に選択出来るように鴨長明の方丈記というミックスページを提案した。)

中村:そういうことだね。貧しさではないということだね。

持たない豊かさと持つ豊かさ

中村:持てないのは貧しさだけど、持たないのは豊かさだからね。ここの空間を豊かと感じるかって、結構向き合い方があるような気がしていて、色も少ない空間だけど、あえてこうしていることを豊かであると感じるのか、委ねられているんじゃないかな。

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若菜:基本ここに来ている人は、ないことの豊かさを感じている人が来ている気がするね。

松山:あえてない豊かさ。自然を感じてもらうための豊かさの様なものとはちょっと違っていて、ここではガジェットを持って来て外に繰り出すことの豊かさなんだと思うな。

石黒:滞在時間でいうとカプセルホテルって他のホテルに比べて極端に少ないですからね。

松山:確かにそうかも。寝るという行為を除くと少ない。ナインアワーズの名前の由来もそうだよね。1時間お風呂、7時間睡眠、1時間休憩で足して9時間そういう文脈でいくと、ないことの豊かさをその時間で感じたりはしにくいと思う。

石黒:Airbnbとは対極なのかなと思います。Airbnbはホストに迎えられて、人と人の体験に価値をおくサービス。一方でカプセルホテルは目的の為だけに利用してすぐに去るとう違いがあります。効率性だけで言えば体験って全然効率的ではないので理にかなってる。

松山:Airbnbって現地の生活を体験するという、泊まるというより生活に重きを置いている気がする。だから、カプセルホテルの対局はラグジュアリーホテルなのかな。星のや東京とか、ハイアットとかって東京の日常生活を満喫するものとは違う。圧倒的なサービスとホスピタリティがあるから。生活を体験することとホテルでの過ごし方はやっぱり違うのだと思う。

若菜:ラグジュアリーな体験なのか、日常を体験するかで言えば、体験軸という意味では同じなのかも。ここの豊かさってさ、持っている靴下全部一緒の様なモノに近いと思うんだよね。 何もストレス無くて、どれを選んでも靴下同じみたいなもので、何色を履こうか悩む必要が無い空間。それを美しい、気持ちいと思う感覚に近いのかもしれない。

石黒:敢えて選択肢を消していますっていう感じか。

中村:選択肢を消しているから、より目的がはっきりしてくる。自分の目的は東京という街の中にあって、人間であるから寝なければいけない。一般的には選択肢が沢山あるということは自由ではある。選択肢が全く無いというある種の凄さ、それによって外部の目的が明確になってくる。

若菜:場というより「道具」に近いのかも。

中村:確かに道具だね。自分のエリアの体験の為の道具なのかも。めっちゃ使いやすい道具で、使いこなせる様になると気持ちいい。われわれは習熟度が上がったんだね。笑

若菜:上手くサウナが使えるようになったということなんだ。

松山:サウナのリピーターが多いというのはそういうこともあるのかも。

若菜:確かにそうかも。サウナは変わらない。自分が変わっているんだということ。いかにサウナという道具を使いこなせるように自分をアジャストできるかが、道であり、仕上がるということ。

場に求められるもの

中村:場に求めらのは道具とは違う要素だよね。何が違うんだろう。

石黒:予定調和なことが起きないことが「場」なんじゃないかな。道具だと予定調和じゃないことが起きるってイラっとくるじゃないですか。

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松山:道具は使い道があって、予定以外のものに対しては応対ができないってことだよね。道具は人の行動を制約するのかな?

中村:それが道具ってことだよね。井戸端会議の語源で言うと、井戸を作ったらそこが井戸を組む場でもありコミュニケーションの場となったというのがあるけど、場づくりのデザインでいくと、敢えて井戸を配置してそれ以上は言わないけど何かが起こると。ユーザーにとっては場を作っている様には見えず、井戸があるだけなんだけどコミュニケーションが生まれる。それは場のデザイン。

中村:一般的な建築のデザイン手法と場のデザインとでは何が違うのかな?

松山:作ったことで予期せぬことが起こると設計者としては面白いなと思う。こういった使われた方をされると思って想定した使い方ではない使われ方をされると自分にとっては一つの発見で、利用者がどう思うのかを分かると嬉しいと感じる。道具としての空間ってハプニングは認めない感じがするんだよね。ある意味人の行動を制約する場を作るという捉え方をしていて、空間で人の行動を制御するって単純に凄いことであるなと感じる。

中村:制御されていても使いこなせることにある種の快感を感じるっていうのはやっぱりこの空間が道具だから。

若菜:意図した余白って気持ち悪い。ここ座ってみんなで話したらみたいな。意図していないところで、ハプニングが起きるのが面白いし、どういうことなんだろうって思ってしまう。

松山:その辺のさじ加減って難しいんですよね。どこまで手を加えて、どこまでを余白として残しておくか。設計者によっても違うし、それがどう展開していくかを設計者としても見たいという気持ちもある。

今回の対談を通じて「道」と「道具」というキーワードに辿り着いた。これはおそらく我々が受け継いできた日本人としての遺伝子にも関係しているのではないだろうか。余計な物を削ぎ落とすことで顕になるそのモノ自体の本質をいかに表現するか。そしてそれをどのように扱うのか。上手くあやつるためには型・作法を習得することが必要不可欠であり、それを体得した時初めてその作法を守る意義が理解できる。それこそが道に通ずることなのだろう。